昔の銅貨(タンギージョ・デ・カイ(Tanguillos de Cái))のレトラっていいですね
Posted by イガ at 20:07
タンギージョ・デ・カイでよく唄われる昔の銅貨を知っていますか?
よくよく読んでみれば何とも味わいのある歌詞だなー、と思ったのでご紹介します。
タンギージョ・デ・カディスのレトラと和訳はこちら
フラメンコ曲種辞典 タンギージョ・デ・カイ ※レトラは削除しました。
カンテをやる人は知っているかもしれませんが、この昔の銅貨という唄は(というかタンギージョ・デ・カイは)レトラ(歌詞)がかなり長いので覚えるのが大変な上に、かなり音域が広いので唄い辛いんですよね。だからあまり好きではなかったのです。
タンギージョ・デ・カディスはフラメンコの曲種の中でも特殊です。通常のフラメンコの唄は3~5行程度の詩をいくつも歌いつないで行きます。基本的に前後の詩に関連性はなく、唄い手の裁量で好き勝手に唄います。(曲種によっては決まった詩を唄うものもありますが)
しかし昔の銅貨では最初から最後までストーリーがあって物語形式になっています。こういうのはフラメンコでは他にないかもしれませんね。
物語の筋としては、昔々海岸で古い銅貨が掘り当てられて、それを聞きつけたカディスの人々が熊手を持って海岸に繰り出しました。朝から晩まで掘って儲けた人もいればまったく見つからない人もいましたとさ、ちゃんちゃん♪というような昔話です。
ボクは今までただのお祭り騒ぎの笑い話だと思っていたんですが、実はかなり深刻な話なんじゃないかと今更ながら思うようになりました。
物語の中盤から話者の姑が登場しますが、彼女はひたすら掘り続けたけれどビタ一文手にすることができず、代わりに肺炎にかかるというオチがつきます。ここはおかしみを持って語られる部分かとも思いますが、肺炎はかなり重症ですよね。
実際彼女はそれが原因で命を落としてしまうんですが、それが語られるのが「今でもまだ葵の咲く中庭で掘り続けてる」という詩の一番最後の部分でオチになるというわけです。ここの表現が「死んだ」とは言わないところが洒落てますよね。
で、この話から読み取れるのが彼らが相当貧しかったということです。お金が手に入るかもしれないという話に真っ先に飛びつき、寝食を忘れるほど(そして肺炎になってしまうほど)没頭している様は余程日々の生活に困っていたんじゃないかと思うのです。
この話は日本でも法事などで親戚が集まったときに、死んだ人の昔話をしたりしてみんなで懐かしんだりするのと同じかなー、と思ったのです。死者を思い出してあげることがお弔いそのものだったりするわけですよね。
ちなみにボクがこの話から想像する姑のイメージは痩せこけて、色が黒くて、眼がギョロギョロしてて、気が強くて、いっつも不平を言ってるような人です。生きてるときは人に面倒ばかりかけて欲張りな人だったけど、結局死んじゃえばいい人だよねー、みたいなことをファミリアで集まって話すシーンを想像してしまいます。
こういう死んだ人のことをタンギージョ・デ・カディスの長調で明るいメロディーで唄っちゃうのってなんだか粋だなー、と感じたのです。この話自体がもしかしたらフィクションかもしれないし、個人的な解釈ですが最近そんな風に思いました。
そしてタンギージョ・デ・カイが少し好きになりました。






















